(兵庫)三宮神社を訪問。三宮の地名の由来で、生田後裔8社の1つ。港神戸で水分補給する神社(RX100M7)

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はじめに

三宮神社を訪問しました。
以前によく使っていたバスが三宮神社行きだったのですが、これまで全く行ったことがありませんでした。

とても小さい神社なのですが、昔はとても大きかったようです。
そして、三宮の地名の由来になった神社です。

歴史の舞台にもなった三宮神社です。
では、詳細を見ていきましょう!

御祭神

湍津姫命(たきつひめのみこと)

素戔嗚尊と天照大御神の誓約により、生れた神様。
素戔嗚尊より誕生したのが、宗像三女神です。

『古事記』・『日本書紀』第二の一書では、3番目に生まれ、辺津宮に祀られます。
『日本書紀』本文・第一の一書・第三の一書では、2番目に生れ、中津宮に祀られる。
宗像大社では、古事記に従い中津宮に祀られます。

宗像大社 中津宮

御由緒

社格

旧村社

御由緒

創建について

神功皇后が生田神社を祀る際に、天皇家にゆかりの神々を祀る八社を巡拝されたことに遡ります。
皇后の参拝順に従い、一宮から八宮までの呼称が生まれたといいますから、三番目が三宮神社ということになりますね。

しかし、神社の説明では上記は取らず、不明・・・とされています。

航海の安全と商工業の繁栄を守る神として 古くから一般の崇敬厚い神社 古い記録がなく いつ創祀されたかなどについては極め難い

港神戸の守り神・三宮の地名由来

神社の境内には 古くから清水のこんこんと湧き出る井戸があり、神戸の港へ出入りの船は必ず神社へ参拝してこの水を汲み取って航海中の飲料水として用いていたそうです。
そのため、大切がられていた、とのこと。

どこでも古くからの船着場には良水があることが条件となっていたがここもその1つであった。

当社の神官は代々世襲で清水さんというそうです。
先祖がこの井戸の清水にちなむものであるようです。

※境内に井戸を見つけられませんでした。ご存じの方いたら教えてください。

また、こちらの神社があることから、三宮の地名の由来にもなりました。

明治維新の転換点の舞台

慶応4年(明治元年、1868年)には 三宮神社前で 備前藩兵と外国兵の衝突が発生します。
明治政府初の外交事件となり、三宮事件のちに神戸事件と改められます。

明治元年正月3日に鳥羽伏見の変が起こります。

これより先 朝廷は徳川親藩の尼崎の押えとして 備前藩を西宮へ警備のため出張を命じます。備前藩では明治元年正月元旦から5日にわたり約2000の兵を進発し、その内4日に岡山を発った家老日置刀帯忠尚のひきいる約500の一隊が11日午後1時頃 三宮神社前に進みます。

その時、突然外国人が行列を横断しようとしたので 無礼を怒った藩士が その外国人を傷けたのがきっかけとなり当時港に碇泊中の米、英、仏、伊、和、普の外国軍艦の 陸戦隊と銃火を交える騒ぎとなってしまいます。

同15日に東久世通禧を勅使とする一行は 明治天皇の宣言書を捧げて6ケ国代表と 神戸運上所(のちの神戸税関)で会見して 始めて天皇親政になっていることを外国へ伝えた。この宣言書には国璽が用いられていた。

当時、大名はとても偉く行列が通る間は一般の人は行列の間ひれ伏して通過を見送りました。
まして、横切るなんてとんでもないことなのです。
外国の方には全く関係ない話だったのですが、価値観的に許せなかったのでしょうね。

本開闢以来、外交上の文書に国璽を用いられたのはこれが最初の重大事実です。
そのため、明治政府にとつて、日本外交史の第1頁を飾るものとなります。
これが神戸運上所(現在の神戸税関)であることは、神戸にとって特筆することですね。

談判の結果 この事件の発砲責任者を各国士官立ち会いの面前で 死刑に処すべしとの 要求を受けた。当時の明治政府に拒む力を持ちませんでした。結果、命を奉じて 備前藩士 滝善三郎正信は責を一身に負い兵庫永福寺で見事な切腹をすることで事件の幕がおります。

明治政府にとっては、しんどい外交デビューだったようですね。

戦前の三宮神社周辺

三宮センター街のホームページ(URL:https://www.kobe-sc.jp)によると、戦前は歓楽街だったようです。現在は落ち着いたオフィス街・ショッピング街ですね。
三宮神社自体の境内も、現在より大きかったようですね。

お正月などは縁日でとても賑わっていたり、
当時は珍しかったコーヒーを飲むことができたそうです。

こちらで、PDF記事を読むことができます。
https://www.kobe-sc.jp/image/history/pdf/pic_15.pdf

三宮神社ホームページ

URLはこちらです。http://sannomiyajinja.jp/
(※社務所のあいている時間(=御朱印の授与時間)も記載してくれています

訪問記

入口・参道

入口

三宮神社の入口です。正面に当たります。

こちらは西側の入口です。

最後に裏側の入口になります。
こちらは昔からの入口っぽいですよね。

手水舎

手水舎です。

細かく見れていなかったのですが、享保17年(1732年)の銘あるそうです。
徳川マーク(葵の御紋)は確認できますね。

拝殿・本殿

拝殿です。小さいながらも立派な造りですね。

三宮神社では、鈴緒は撤去されてませんね。

お参りしました。

少し斜めからです。

こちらは、本殿の写真です。
奥にしっかりと建てられています。

方位・干支石

拝殿の前には、方位石があります。

神社の説明書きには、このように記載されていました。

お宮さんにお詣りしてからご自分の干支の位置に立って写真を撮り御神符・お守り等をお受けになると
 無病息災・厄除招福・家内安全
 進学成就・交通安全・社運隆昌
 商売繁盛・良縁結実
等が得られるとつたえられております。

お守りを授与してもらうのを失念していましたが、自分の干支で写真は撮影しておきましたw

摂社・末社

三宮稲荷大明神・安高稲荷大明神

由緒

境内に祀る末社の三宮稲荷と安高稲荷大明神は古くから霊験あらたかとして信仰され 各地からの信者の参詣あるそうです。中には、京都大阪方面から子孫代々にわたり 今なお月参りをされる熱心な信者もいらっしゃるとのこと。

戦後いち早く篤志家の寄進によって復興されて いよいよ神徳が崇められているようです。

社殿

社殿です。

内部です。

河原霊社(源平の史蹟)

祭神

河原太郎高直 公(兄)
河原次郎盛直 公(弟)

由緒

寿永3年(1184年)に起こった源平合戦・一の谷合戦、生田の森で一番乗りの功名を建て討ち死にをした源平の勇士・河原兄弟の塚と馬塚が三宮神社付近にありあました。

神戸港開港後の発展により失われますが、大正11年4月に三宮町3丁目の勇士が復興により河原霊社を建立します。その後、紆余曲折を経て昭和46年に三宮神社境内に鎮座することになります。

阪神淡路大震災で倒壊したようですが、平成10年1月に復興されたそうです。

社殿

こちら、河原霊社の社殿です。

神戸事件の史跡

神戸事件の史跡です。

こちら、鳥居をくぐった後の左側に飾られている大砲です。
当時の備前藩が使っていた大砲と同年代の型のようです。

御朱印

三宮神社の御朱印です。シンプルですね。

地図・住所

地図

〒650-0021 兵庫県神戸市中央区三宮町2丁目4−4

三宮神社の目印

道順ではなく、近くの目印を複数記載しておきますね。
1)デパート 神戸大丸

2)三宮プラッツ

3)シネリーブル神戸

最後に

三宮神社をご紹介しました。

三宮の地名の由来にもなった、戦前には周りに歓楽街があり、
とても栄えていた神社です。
幕末から明治にかけての神戸事件(三宮事件)では、明治政府として初めての外交案件になった歴史の舞台にもなった神社ではあります。

現在は神戸の経済発展に伴い規模が縮小され、周りはオフィス街になっています。
それでも、重要な神社であることに変わりありません。

三宮を訪れた際には、ぜひ訪問ください。

では、皆様にもよいGOENを!
そして、1日でも早く旅と写真が楽しめる日が来ることを!

デル株式会社

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