目次
はじめに
大阪は天王寺にある堀越神社を訪問しました。
ビルの谷間にある、入口は小さめの神社です。
熊野古道(熊野街道)の1つ目の王子、ということで、大鳥大社付近で見る熊野街道も見かけてとても親近感が湧きました。
しかも、島田秀平さんもYoutubeで紹介しており、とても気になっていました。
実は、ビックリする由来を持つ神社なのですが・・・。
では、ご覧ください。
御祭神
主祭神
崇峻天皇(すしゅんてんのう)
・・・殺害された唯一の天皇。蘇我馬子の手のものによって殺害された。
配祀神
小手姫皇后(おてひめこうごう)
・・・崇峻天皇の妃
蜂子皇子(はちこおうじ)
・・・崇峻天皇の第三皇子
錦代皇女(にしきでこうじょ)
・・・崇峻天皇の皇女
由緒
社格
旧社格は村社
由緒
聖徳太子が四天王寺を創建した際、崇峻天皇を祭神として風光明媚な茶臼山の地に社殿を造営したのが最初と伝わり、四天王寺七宮の一つに数えられる。
非業の死を遂げた人は、殺した人を祟ると考えられていました。しかし、手厚く葬ると守り神になると考えられていました。そのため、神社を建立して手厚く葬られたのではないでしょうか。
摂社に太上神仙鎮宅霊符尊神があります。
こちらはお札の神様とのこと。
怨霊となって、祟りがでないように摂社に配置したのではないでしょうか。
なお、創建当初から明治時代中ごろまで境内の南沿いに堀があり、この堀を渡って参詣したことが社名の由来とされています。
ちなみに、島田秀平さんもYoutubeで紹介されています。
#21 最強のパワースポット教えます!【島田秀平のお怪談巡り】
神社でも、 「ひと夢祈願」 として紹介されています。
(※ひと夢祈願は、予約が必要とのことで堀越神社ホームページを参照ください。)
訪問記
入口の鳥居
対面の道路から撮影した鳥居です。
実際に入口まで来ました。
どっしりした印象です。
手水舎
鳥居を超えてすぐ左手に手水舎があります。
新型ウイルス対策のため柄杓はありません。
直接手で受けます。
本殿
本殿正面です。
御本殿です。
お参りしましょう。
※現在は新型ウイルス対策のため、鈴は鳴らすことができません
左からの様子です。
本殿を右側から見た様子です。
太上神仙鎮宅霊符尊神と御神木
鎮宅霊符尊神は、陰陽道における天地創造の中心に位置する、宇宙根源の神とされます。
そのため、陰陽道最高の護符とされています。
ちんたくさん、と言われており、お札の元祖の神様とのことです。
お社の入口です。
お社です。
御神木です。
樹齢550年の楠木です。
疲れたときに、力をもらいにくるといいようです。
熊野第一王子之宮
元は熊野九十九王子の第一王子・窪津王子です。
その後、四天王寺西門の近くに熊野神社として祀られていましたが、1915年(大正4年)2月10日に現在地に移されています。
お社です。
神社の道路向かいに、熊野街道の石碑があります。
熊野街道の起点を訪問しました。こちらご覧ください。
茶臼山稲荷神社
以前は、茶臼山の頂上にあったとされる稲荷神社です。
本殿の左側に鳥居が並びます。
江戸時代、大阪城代が新たに任に就くと当社に詣でて幣帛を奉り、燈籠を献じ、茶臼山の家康本陣跡に詣でたと伝えられている。
さぁ、お参りしましょう。
黒龍社、白龍社
それぞれ、蛇を祭神とします。
蛇は神聖な生き物とされており、事業発展加護の利益があるとされます。
黒龍社
熊野第一王子之宮のそばにあります。
お社です。
白龍社
入口鳥居の右側にあります。
お社です。
その他
稲荷神社の奥に狛犬が鎮座していました。
昔は、上記に入口があったのか・・・!?
かえる石です。確かにかえるの形をしています。
社務所の前に、キレイな花が咲いていました。
都会の中であるにも関わらず、かなり多くの緑に囲まれています。
こちらも外周から。御神木が見えます。
御朱印など
御朱印
御朱印です。
鳥居すぐ左の社務所でいただきます。
社務所からは、こういった景色が見えます。
お守り
複数のお守りが販売されています。
狛犬の小さい置物も販売されています。珍しい・・・。
大阪夏の陣、激戦地巡りスタンプラリー
天王寺は大阪夏の陣の主戦場。
近くの神社・お寺で激戦地巡りスタンプラリーをやっています。
1冊100円で購入でき、最後の場所で景品をいただけるようです。
購入し、堀越神社分のスタンプを押しました。
恐らく、NHK 大河ドラマ『真田丸』のころに始まったのだと思います。
地図・場所
地図
〒543-0063 大阪府大阪市天王寺区茶臼山町1−8
(※堀越神社ホームページ)
最寄り駅:各線 天王寺駅 7~8分程度
行き方
天王寺駅から谷町筋を北上したら見つかりますよ。
最後に
ひと夢祈願のある堀越神社、いかがでしたでしょうか。
崇峻天皇の無念さを鎮めるための御霊信仰に基づく神社の1つです。
手厚くお参り(お祀り)をすると、むしろご加護を賜れるという信仰です。
また、徳川家康が一生を救われた、という逸話も面白いです。
代々の大阪城代が堀越神社を参拝していたということは、それほどに徳川家康はピンチに陥っていた、ということです。
大阪夏の陣に対する見方も少し変わりますね。
では、皆様にもよいGOENを!
そして、1日でも早く旅と写真が楽しめる日が来ることを!
もともと、蘇我氏のライバルであった物部守屋は、同母兄の穴穂部皇子を即位させようとはかるが、穴穂部皇子は蘇我馬子によって殺害されてしまう。その後、蘇我馬子は、物部守屋を滅ぼし、これ以降物部氏は没落していく。
物部氏の没落によって欽明天皇以来の崇仏廃仏論争に決着が付き、法興寺(飛鳥寺)の造寺事業が行われた。しかし、即位したあとでも政治の実権は常に馬子が握っており、崇峻天皇は馬子に次第に不満を感じるようになっていく。
592年10月4日に、猪を献上する者があった。
崇峻天皇は笄刀(こうがい)を抜いてその猪の目を刺し、「いつかこの猪の首を斬るように、自分が憎いと思っている者を斬りたいものだ」と発言。
そのことを聞きつけた馬子が「崇峻天皇は自分を嫌っている」と警戒。偽って天皇を儀式に臨席させ、その席で馬子は部下の東漢駒に暗殺をさせた。崇峻天皇は死亡した当日に葬られたが、当日に葬られたこと、また、陵地・陵戸がないことは、他に例が無い。
近年、歴史学者の佐藤長門は「王殺し」という異常事態下であるにも関わらず、天皇暗殺後に内外に格段の動揺が発生していないことを重視して、馬子個人の策動ではなく多数の皇族・群臣の同意を得た上での「宮廷クーデター」であった可能性が指摘されているようです。
※こちらは、Wikipediaより多くを引用しました