目次
はじめに
東京の溜池山王付近、愛宕山に鎮座する愛宕神社を訪問しました。
「出世の石段」の逸話がとても有名です。
神社にお参りして、逸話が実践できるように日ごろから鍛錬を積みましょう!
自分自身も、人としての階段、人生の階段を登っていけるように精進したいと思います。
では、ご覧ください!
祭神
主祭神
火産霊命(ほむすびのみこと)
火の神。火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)。
イザナギとイザナミとの間に生まれた神である。火の神であったために、出産時にイザナミの陰部に火傷ができ、イザナミが死んでしまいます。
配祀
罔象女命(みずはのめのみこと)
水の神。
カグツチを生んで陰部を火傷し苦しんでいたイザナミがした尿から、和久産巣日神(ワクムスビ)とともに生まれたとされています。
大山祇命(おおやまづみのみこと)
山の神
「古事記」では、神産みにおいてイザナギとイザナミとの間に産まれたとされています。
「日本書紀」では、イザナギが火之迦具土神を斬った際に生まれたとされています。
日本武尊(やまとたけるのみこと)
武徳の神
その他
将軍地蔵菩薩(しょうぐんじぞうぼさつ)
勝運・出世
徳川家康のご持仏だったそうです。
普賢大菩薩(ふげんだいぼさつ)
辰・巳年の守り本尊
梵名のサマンタバドラとは「普く賢い者」の意味であり、彼の世界にあまねく現れ仏の慈悲と理智を顕して人々を救う賢者である事を意味するようです。
天神社(てんじんしゃ)
学業
社格・由緒
社格
旧村社です。
由緒
1603年、慶長8年、江戸に幕府を設く徳川家康公の命により防火の神様として祀られました。
慶長15年、庚戊本社をはじめ、末社仁王門、坂下総門、別当所等将軍家の寄進により、建立されました。
祭礼などには下附金を賜るほど、当時の幕府の尊崇は篤いものだったようです。
なお、愛宕山(京都・嵯峨野)は修験道七高山の一つとされ、「伊勢へ七たび 熊野へ三たび 愛宕さんには月まいり」と言われるほど愛宕山は修験道場として栄えたそうです。
そのため、全国に愛宕神社が創建されたとのこと。
その後江戸大火災で全焼したそうですが、明治10年、9月に本殿、幣殿拝殿、社務所の再建されました。
愛宕山について
丘陵地で、26メートルの小山です。
天然の山としては23区内で一番の高さだそうです。
訪問記
社号標から神社境内
社号標
社号標です。
大鳥居の手前にあります。
大鳥居
大鳥居です。
出世の石段が奥に見えます。
出世の石段
石段です。
急であることが分かります。
出世の石段の説明書きがありました。
ここから学べることは、「勇気と日ごろの鍛錬が重要!」ということですね。きっと。
上から見た様子です。
一の鳥居から本殿
一の鳥居
一の鳥居です。階段を登り切った場所にあります。
手水舎
手水舎です。一の鳥居をくぐって左側にあります。
龍が水を恵んでくれます。
朱塗りの門・本殿
朱塗りの門です。
本殿です。
お参りします。
とてもキレイな社殿と思います。
斜め横から見た社殿です。
摂社・末社(ここでは、末社のみ)
太郎坊社
祭神:猿田彦神(天狗様)
福寿稲荷社(福寿稲荷神社)
祭神:宇迦御魂神
稲荷社らしく、社殿の前に鳥居があります。
お社です。
社殿の前に、キツネの石像が鎮座しています。
大黒天社(大黒天神祠・恵比寿神祠)
祭神:大國主命・事代主命
弁財天社
祭神:市杵島姫命
入口です。鳥居があります。
お社です。池を隔てていないのは珍しいかもしれません。
その他境内の様子
池
境内に池があります。
池に鳥居が建てられていました。
その他
招き石です。
石を撫でると、福が舞い込むと言われているそうです。
御朱印
御朱印です。1種類のようです。
本殿を正面に、右側に社務所があります。
住所・場所
住所・地図
〒105-0002 東京都港区愛宕1丁目5
周辺情報
ため池(溜池)発祥の地を見かけました。
近くに、虎ノ門ヒルズがあります。地図を確認します。
参道があります。
最後に
東京の愛宕神社をご紹介しました。
こちらの神社は、出世の石段の逸話が有名ですが、
そもそもは、東京の防火(火伏)の役目を持った神社でした。
周辺は、溜池山王というとても都会のビル群の外れにある神社です。
溜池山王ヒルズもオープンしており、再開発が進んでいる地域でもあります。
今は飛躍を求めて訪れる方が多いようです。
私が訪問した際も、女性の方が石段の下で写真を撮っていました。
逸話から学べることは、イザというときに力を蓄えておくこと。
そして、それを発揮する勇気を持つこと。
私も、イザというときに力を発揮できるような鍛錬と勇気を持ちたいと強く思いました。
では、皆様にもよいGOENを!
そして、1日でも早く旅と写真が楽しめる日が来ることを!
江戸三代将軍、徳川家光公が芝の増上寺に参詣した帰り道、愛宕神社の下を通った。
愛宕山には源平の梅が満開に咲いており、それを見た家光公が山頂を見上げて、「誰か騎馬にてあの梅を取って参れ!」と命じられた。
しかし、目の前には急勾配な石段があり、歩いて登り降りするのにも一苦労。馬での上下など、とてもとても・・・と家臣たちは皆一様に下を向くばかり。誰一人名乗り出る者はいませんでした。
家光公の機嫌が損なわれそうなその時、一人の武士が愛馬の手綱を取り果敢にも石段を登りました。
「あの物は誰だ?」と近しい家臣に聞いても分からない。
そんな中、「国家安泰」「武運長久」を祈り、梅の枝を折って取ってきました。
家光公に梅を献上すると、「四国丸亀藩の家臣、曲垣平九郎にございます」と名乗り、家光に「日本一の馬術の名人である」と褒めたたえられます。
そして、平九郎の名は一日にして全国とどろき出世をした。
この故事にちなみ、「出世の石段」と言われるようになりました。